情緒が過ぎる

演劇・映画・文学

『白昼夢』at 本田劇場

公演情報

M&Oplaysプロデュース『白昼夢』
2021/3/20(土)~2021/4/11(日)
作・演出:赤堀雅秋
出演:三宅弘城吉岡里帆荒川良々赤堀雅秋風間杜夫

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独断と偏見あふれるザックリまとめ

ひきこもりの中年の息子。同居する老いた父。生真面目な兄。ひきこもりをサポートする二人の職員。引きこもり生活からの脱出をもくろむ家族と職員の日々の記録。

観劇レポート

一軒家風のセットが組まれ、窓から夕日が差し込んで綺麗。

荒川良々演じる中年の息子の動きが、やけに威圧的で、普段だったら近づきたくない類の危険さが滲み出ている。
父も父で、すぐに感情的になって大声を出す。典型的な昭和の父親像という感じがするが、息子の引きこもりの原因が自分にもあるという自責がないわけではないのが少し愛らしい。
兄はチャキチャキ話して、常識人を装うが、いちいちわかっていない発言が、家族のちぐはぐ感を加速させる。

こうした人物造形のリアルさがこの舞台のハイライトだと思う。
逆に言えば、この舞台で光るのは筋ではない。

俳優の人物造形にしても決して光っているとは言いたくない。確かにリアルではあるのだけれど……。リアルすぎて気持ちが悪いというのか。

この脚本には、女性を性的に軽視することで笑いを取ろうとする姿勢が随所に散りばめられている。しばらくバラエティを見ていないので、久しぶりにこうした「笑い」の撮り方を見たが、まだバラエティの方がマシかもしれない。

テレビの画面を通して見ると、「テレビはもう本当に"オワコン"なんだな」と一業界の特質として切り捨てるだけで済むのだが、舞台だとそうは行かない。

それを受け止める観客がすぐそこにいるからだ。

気分の悪くなる冗談に声を出して笑う人間がいまだにこんなにいるというあまりに重すぎる現実を、舞台という創作を見ると同時に、受け止めなくてはならなくなってしまう。

観客は舞台空間において名のない人々であるだけ、世間をそのまま反映しているように思えて、息が苦しくなった。

隣の男性がおかしくてたまらないというように笑うたび、いつ、どのようにこの場から立ち去ればより強く抗議の意を示すことができるだろうかと考えあぐねたが、この場にずっと居続けなければならない女性のことを思うとどうも踏み切れなかった。

こうした「笑い」の稚拙さが最後にどう裏返されるのかと切実な期待を持って最後まで観劇したが、何ということもなく、ダメな男に引っかかるダメな女というこれまた稚拙な結論に導かれていて、それが「それでも生きていく」ということなら、さすがにちょっと反省して欲しいと思った。誰に?

そんな世界に「それでも生きていく」現実になんて向き合いたくなかった。
そこになんの光も見出せない演劇に意味があるか。

もちろん、こうした憤りを私自身消化できていないので、ただ責め立てるということもしたくはないのだけれど、あの場にいることによって消耗した心が確かにあったということは大事にしたい。

それにしても、カーテンコールで出てきた女優さんのなんとも苦しそうな表情が忘れられない。お芝居にしても、性的な対象として消費されつづけるあの経験、それに対する観客の反応を引き受け続けなければならない環境はあまりにむごい。

周りの男優たちはそれを理解しているだろうか。演出家は、制作会社はどうなのか。

舞台の経験を積むにしたって、彼女があの舞台に出ることによる代償はあまりに大きいのではないか。

好きな女優さんだけに、もう少し仕事を選んだ方がいいのではと思うが、そういう世界と言ってしまえば、そうなのだろう。せめて演劇にはテレビとは違う希望を感じたかったのだけれど、そう上手くはいかないようだ。

舞台は生ものだといういうけれど、それは観客に対してもそうで、あまりに生々しい現実と突き合わされて、しばらくは近づけそうにない。

映画でも見て、静養しようと思う。

つぶやき

見たくなければ見なければいいというのは、処世術としては確かにその通りで、しばらくこの脚本家、俳優陣の作品を見ることは避けたいと思うのだが、こうした舞台を作る人、一人一人にも家族があり、その多くが女性を構成員に持つであろうという現実からは目を背けないようにしたい。

卒論を書き終え絶望、寝て復活(1)題材を決める

ついに先日卒業論文を提出した。
最後までギリギリすぎて、本当に卒業できないかと思った。

誰の役にも立たなそうだが、提出までの流れをまとめておこうと思う。
どうか反面教師にして、ここまでサボるとやばいんだぞというラインを押さえておいて欲しい。

ちなみに提出日は1月第1週だった。これを念頭においてヤバさを体感していただきたい。

メジャーかマイナーか

卒業論文で扱う作品を何にするかということはだいぶ前から考えてはいた。
どちらも大学で出会った妙に惹かれる詩で、同じだけ魅力的だったので、ずいぶん悩んだ。
同じ詩ではあるが、ずいぶん位置づけの異なる詩だったので、先生からもよく考えるようにと言われていた。

一つは、いわば伝統的な詩で、これまでも数多くの研究がなされてきたもの。
もう一つは、20世紀の詩で、有名だが、特に日本ではそれほど研究が盛んでないもの。

簡単にまとめてしまえば、メジャーを選ぶか、マイナーを選ぶかという選択である。

先行研究が多い作品を扱うべきか、研究されてこなかった作品を扱うべきかという問いに対しては、どちらの研究も一長一短で、人によって意見が異なるようだ。
結局自分がやりたい方を選ぶべきという助言を得て、また考え込む。

「私にはまだ早い」

一番の悩みどころだったのは、後者の、つまり現代の詩が、私にとってあまりにアクチュアルであるが故に、思想に引っ張られずに、詩としてきちんと扱うことができるか不安が残るという点だった。

文学部の卒業論文なのだから、少なくとも詩は詩として扱うべきだし、テクスト内部の読解を重視するのが研究室の方針なの(だと私は思っている)から、外在的な読みに終始してしまわないかということを懸念していた。

そして、ひとまず前者の19世紀の詩を選ぶことにした。
もちろん、こっちの方が簡単そうだからとかそういう理由ではなく、これまで研究されてきたもののほうが、詩を詩として扱う訓練には向いているように思われたからだった。

6月あたりに、卒業論文の説明会があり、そこで研究題材を問われた。

「(後者)は私にはまだ早いと思って…」というようなことを言って流そうとしたら、「やりたい方でいいんだ(本当は後者を選びたいんでしょう?)」と先生に説得された。
どうやら「(能力的に)私にはまだ早いと思って…」、という意味に捉えられてしまったようだ。

確かにそう意味で捉えると、先生が不安に思うのも仕方がない。

しかし、言い訳をする間もなく説明会自体が終わってしまったので、またもや決め切れずに悩みだけが残った。

「精神面においても「まだ早い」ことを気にせず前進してみるべきなのか?」「ある程度研究が進んでいる方が「詩として扱う」姿勢からずれにくいのではないか?」

完璧な卒業論文

悩みに悩み、結局そのまま夏を迎えた。

ゆるゆると前者に関連する研究書を読み進めながら過ごしていると、縁あって読書会に参加させていただくことになった。
なんと後者を専門にする博士の方とともに、卒論の題材候補を読み進められることになったのだ。

こんなに幸運で良いのかと思ったが、決め切れていないにしても、人生のどこかで必ず真剣に考えてみたいと思っていた作品だったので、これを逃すわけにはいかないとすぐに参加希望の連絡をした。

夏休みの間、背景や他の作品との関連について解説を加えていただきながら、和訳片手に読み進めるうちに、全く理解不能だと思っていた詩から少しずつ引っかかる言葉が浮かび上がってきた。

とにかく読み切るという経験の大切さをこれほどまでに感じたことはなかった。

同時に、アクチュアルな詩であるということにはやはり変わりなく、詩の背景にある歴史はあまりに痛ましいものであったし、現在まで引き継がれる不平等もあまりにどうしようもないものに思われた。

読書会を終える前には決めようと決意した矢先、ふと思った。

「上手くいきそうにない作品を選ぶことができるのは、むしろ卒業論文の方なのでは?」

なぜそれに気づかなかったのか、今となっては理解できないが、どうも立派な卒業論文を書き上げたいという思いに囚われすぎていたようだ。

一度そういう考えに至ると、すんなりと心は決まり、読書会が終わる頃にようやく、卒業論文の題材を決定するに至った。

 

 

お気づきだろうか。

題材を最終決定したのは夏の終わりである。
つまり、執筆にかけられる時間はたったの3ヶ月である。

長々と悩んで一仕事終えたかのような書き振りだが、まだ題材を決めただけである。テーマすら決まっていない。

ついでに言えば、決め切れないあまり、どちらの研究書も買い集める羽目になり、普段から悲しげな財布がこの時点ですでに咽び泣いていた。

前途洋々とは中々いかないのが人生である。

次回に続く。

ささくれが痛い

寒さが深まって乾燥するせいか、指がささくれだらけである。

後悔するとは知りつつも、ついつい引っ張って抜いてしまう。
一時的にすっきりするが、後からどんどん膨らんで、熱を帯びて、ものすごく痛む。

膿が目に見えればまだいいが、そうでなければ絶望。

ただただ痛み、あてずっぽうに押し出そうとしても、痛さが増すばかりで終わりがない。

何度か繰り返すうち、痛みが癖になるのか、「痛い、痛い」と言いながら、狂ったように指と爪の間を押し続けている。

               ***

今日、23回目の誕生日を迎えた。

年を重ねるごとにイベントに対する感情は薄れ、もはやハロウィンもクリスマスもお正月もただ名前だけが残ってしまった何か。

誕生日も例外ではないらしく、ただ生まれただけの日にそんな名前をつけることにすら居心地の悪さを覚える。

日々降り積もる息苦しさをどうにか払いのけながら、その大元を探ろうと必死なのだけれど、それは随分奥まったところにあるようで、いつまでたっても手が届かない。

そのうち、いつから何が苦しいのか分からなくなってしまって、漠然とした、しかし確かにそこにある痛みが寄せては返し、ついに収拾がつかなくなってしまった。

高校時代は、自分が何に悩み、何を恐れているのか、時間をとって振り返ればすぐに分かるような気がしていたけれど、今では随分入り組んでしまって、具に紐解くのは難しい。

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人生において前進する力を、どこかに置いてきてしまったような気でいる。

どこが前なのか、前なんて本当にあるのかすっかり分からなくなってしまって、ただその場にとどまり、あれやこれやと考えをめぐらして、何にもならず、ただ分からないということだけを知り、寝て、起きて、毎日は繰り返される。

世の中の流れに乗って進めるのはここまでで、当たり前のように就職という道を選ぶことができなかったのだから、あとは自分でどうにか。

消化できていない人生の色々が溜まりに溜まった膿を、どこかに出してやらなければならない今。
これまでは避けてきた言語化という行為に真剣に取り組むべき時が来たのではないかと感じている。

言葉にしてしまうと、言葉にできなかったものが流れ落ちていくような気がして、自分の中で成熟するまで待つのが良いと思っていた。
しかし、形に残らないだけ記憶から逃れていくものもあって、一時的に止めるということはやはり必要みたいだ。

個人的なことを筋道立てて話すのがどうにも性に合わなくて、しかし開かれた場である以上絶対に必要で、どうにか境界あたりで良い書き方を見つけられないかと模索中である。

幸い世の中は素敵な文章で溢れているので、今年は良い文を読んで考えて言葉にして、しっくりくる文体を見つけられるように、アウトプット、output。

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誕生日なんて名ばかりだと言いながら、ちょうど良い区切りとして利用してしまう。

昔みたいにワクワクしながら朝を迎える気持ちも高揚もないが、ここはひとつコマを進めたということにして、自分を納得させるのも悪くはないだろう。

しかしまあ、傷に向き合わずにやり過ごすと、あっという間に化膿してどこが痛みの元か分からなくなってしまうから大変だわ、ささくれ。

『てにあまる』@東京芸術劇場/プレイハウス

公演情報

Sky presents『てにあまる』
2020/12/19(土)~2021/1/9(土)
脚本:松井周
演出:柄本明
出演:藤原竜也高杉真宙佐久間由衣柄本明

horipro-stage.jp

独断と偏見あふれるザックリまとめ

一人暮らしの老人の家を訪ねてきた一人の男。 過去に向き合うために同居生活を始める二人。別居中の妻と部下の会話が次第に男のヴェールを剥いでいく。断ち切ることのできない狂気。理性。本能。抑制。人間。

観劇レポート

プレイハウスと不釣り合いなほど小さい部屋。舞台の余白がいい。

笛を吹く老人。音はあんまり鳴らない。携帯の呼び出し音がなり、布団に潜り込む老人。布団に入る体の動きが妙にリアル。
いや、人間がやってるんだから紛れもなくリアルなんだけど、ただの動作じゃなくて役の印象がぶつかりにくるみたいなフィクションのリアル。

ドアの外から覗く若い男。二人のやりとりが小気味いい。目だけ見えてるのがまあまあ怖い。なんの脈絡もなくガツンと没入させられるのが演劇の好きなところ。

老人を家に呼び寄せる男。ちょっと不穏なセリフを混ぜ込みつつ、ユーモラス。男が帰った後の柄本明さんの一挙手一投足が妙なリアルさ。

切り替わって男の家。
ここの切り替えがすごく好き。小さな部屋ごと横に流れて、ようやくプレイハウス並みの家がはまり込む。

男の部下がやってきて仕事の説明。あまりうまくいってなさそうだし、部下もあまりできそうには見えない。余談ですが、声を枯らさないって思っている以上に大変なんだろうなとお芝居を見にいくたびに思う。

続いて妻。部下との関係、ありがちだけどオチのつけ方がいちいち面白い。誇張するユーモア。誇張の間というか、リズムと勢いがキラリ。

次第に明らかになる男と部下、部下と妻、男と老人の関係と男の姿。
会話によって人物像を象っていく仕方が決まりすぎてなくて良い。

男と老人の掛け合いは「お見事!!!」

藤原竜也さんはやはり舞台の人だなあと思う。パンフレットで、柄本さんが藤原さんの「怒り」を褒めていたけれど、それを実感できるお芝居だった。
怒りはエネルギーだよなあ。人間だよなあ。

最後のシーンで全体が締まる感じがして良い。全てが精巧にラストに繋がっていっている印象。アプリ、チャイム、細かい設定が生きてるみたい。

こういう具体の中の余白がすごくお芝居らしくて好き。行きすぎず固めすぎず。

映像的なイメージによる余白とはまた違って、物とか言葉とかリアルの中で余白を作るって舞台の上でしかできないことだよなあと今更ながら。

 リアルな物語に見えていたものが一気にぐらつく感じ。どこまでがリアルで、どこからがフィクションなのか?最初からフィクションなのに。

兎にも角にも、柄本明さんと藤原竜也さんのお芝居を生で目撃したという感動が一番。
静かな圧と激しい突。
特に柄本さんの体が醸し出す怪気が体感できてよかった。
できればもう一回くらい行きたい。

つぶやき

以前半沢直樹の特番で、

「演技をするって不自然なことなんですよ。自然じゃないとか言われたって困っちゃいますよね」

とおっしゃっていたのに頭を打たれたような気持ちになって、
それ以来すっかり柄本さんのファンなのですが、今回のパンフレットの対談も素敵でした。久々に買ってみてよかった。

濃い経験から生まれる言葉が本当に好きです。言葉が肉を持つみたいで。

 

『そして春になった』@本田劇場

公演情報

M&Oplaysプロデュース『そして春になった』
作・演出:岩松了
出演:松雪泰子ソニン瀧内公美片桐はいり

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独断と偏見あふれるザックリまとめ

朗読(?)劇。かつて一人の男を奪い合った二人の女。新たな愛人を湖に突き落とした夜、二人の関係性は変化する。連鎖する愛憎。共犯者となった二人。二人の姿は一つの女。 

観劇レポート


驚くほど静かだった。

上着が擦れる音、息をのむ音、体を揺らす音。かすかな動きも音が拾って会場に響かせてしまうから、体が変な音を出さないようにするので必死。

艶びやかなドレスを身にまとった松雪泰子とあどけない白いワンピースを着たソニン。真っ赤な台本を手に、ある夜の物語から二人の劇が始まる。


二人の関係性やそれぞれの人物像が明らかにならないうちに会話はスタートし、しかし観客は徐々にそれらを掴み始める。舞台も音響もシンプルで闇に近く、探り探り会話に耳をすませるにはぴったりな環境だ。

質の違う、しかしよく響く二人の声が空間を切り裂いて、ぴりぴりした感じが常に体にまとわりついていた。やっぱり声は大事だよなあ。声の震えが体の芯と共鳴するみたいで、本多劇場の音響がいいと言われる所以はこういうところにあるのかしらと考えていた。演じる側にも見る側にも良い響きを作るってどういう作業なんだろうか。

卒業論文を書きながら、詩という形式でしか表せないものとは何だろうかとよく考えるのだけれど、舞台は私にとって言葉を体感する場で、記録には残せないその儚さがいつも私を劇場に連れてきてくれるのだろうと思った。

 
妻にとっての夫、女優にとっての監督の怪しさが、二人の会話から、会話の中の会話から形をとっていく。ペンションでの一幕を想起する下りは、まるでその場面が目に浮かぶようで、それが言葉そのもののせいなのか、言葉運びのせいなのかはわからなかったが、映画的な切り取り方だと思った。

二人の力加減が反転する場面の迫力はあまりに真に迫っていて(これは現実に迫っているということではなく)、盛り上がりは最後に持ってくるだけのものではないなと学ぶ。

 
優越感に浸りたい若い女、隠しきれない嫉妬にかられる妻という構図は、ありきたりといえばありきたりだが、感情の機微が丁寧に描かれていて、ソフィスティックなフレーズによって単なる愛憎には止まらないように拡張される部分もあって、全体的に文学的な匂いのする舞台に仕上がっている。

 
終盤のソニンさんの身体表現は、だから彼女をキャスティングしたのねと感嘆してしまうほど素晴らしかった。少し前に蜷川幸雄の『身体的物語論』を読んでいたく感動したが、舞台の上にどういう身体を置くかという問題は、演出にあたって幾分重要な観点であるのだろうと体感することができてよかった。絶妙なライティングも鮮やかな赤の布もスモッグも全てが調和していて、この舞台のハイライトといっても過言ではないだろう。

身体的物語論

身体的物語論

 

全体を通して、台本片手に交わされる会話を観客は眺めるのだけれど、この距離感がちょうどよかった。観客と演者の距離、演者と役の距離、役の過去と現在の距離、どこか一枚挟んでいるような感覚がこの舞台には必要だったのではないかと感じる。

 
今年、帰国してから見た演劇は、「演劇がやりたい」というメッセージがあまりに直接的で、もちろん痛いほどわかるのだけれど、ちょっと疲れてしまうところもあった。匂わせるくらいが好みなのは小説だけではないらしい。

なんだか久しぶりに、日本の演劇を見たという感じがして、日本語話者として場に居合わせることができて良かったなあと思うお芝居だった。

つぶやき


岩松了さんのお芝居を見るのは初めてだったが、1時間という短めの上演時間も濃度できちっと昇華させる素敵な舞台だったと思う。

今日までのところ今年いちばん。何かと厳しい状況下で上演してくださって、ありがとうございました。

明日は大好きな松岡茉優さん出演の舞台。楽しみ楽しみ。
卒論終わるかな……。